2010年01月30日

twitter はじめました。

今さらながら、ちょうちょぼっこもtwitter はじめました。
https://twitter.com/chochobocko

ちょぼメンバーもそれぞれやっています。

杏さん: 仕事でも使っているらしく難しいことつぶやいています。
https://twitter.com/apricot_f

ごーださん:たまごかけごはん食べてるとか、しかつぶやいていません。きのうからはじめたばかり。
https://twitter.com/tg0421

しんじ:ごーださんと同様、きのうからはじめたばかり。
https://twitter.com/aya_0626

ツギータ:まだだっけ?

●ちょうぼメンバーのリスト
https://twitter.com/chochobocko/chochobocko

ブログ更新が滞り、短いのならできるかなと実験的にやってみます。
よかったら、のぞいてください。


posted by chochobocko at 20:58| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月21日

神戸残照 S

1月19日付けのdaily sumusに、昨年末、旧グッゲンハイム邸でおこなわれた「とある二都物語」について季村敏夫さんが書かれた文章が引用されていた。
http://sumus.exblog.jp/12696712/

季村さんが書かれいてた「詩人の顔はほとんどなく、古本屋さんの自由な参加という、ユニークな集い」、その場にわたしとごうださんもいた。
このトークイベントについて、記憶に埋没してしまうまえに、覚え書きでもいいので記録しておこうと思いつつ、日々だけが過ぎ去ってしまったけど、いい機会なので、おもいだしつつ、書いてみることにする。(メモは全くとってなく、時間も経過しているため、間違っている箇所があるかもしれません。)

居酒屋というより大衆食堂という言葉が似合う、その店に入るとすぐに、ロードスさんは「季村さん、もっとしゃべらなあかんわ」と言ったので、わたしとごうださんは、はっとあたりを見回した。
たしかに「とある二都物語」とタイトルにありながら、「神戸」あるいは「神戸の詩人」についてはあまり語られなかった。
「神戸に住んでないと書けないことがある」とか「神戸を地方だと思ったことは一度もない」というようなことを、ロードスさんは話してたように思い出す。わたしはその言葉になんとも言えない哀しさを感じたのだけど、
街の草さんは、あの、いつもの優しい声で「そうかなあ。ああ、でもそうかも。タルホについて書かれているものを読むときに感じるかもなあ。垂水から三宮に通う。あの感覚、住んでないとわからないかもなあ」と言った。
「垂水から三宮に通う」

その感覚は耳で聞いても、文字で見ても、わたしにはまるで想像もつかないものだった。垂水から三宮に通う、感覚、景色。それが体内にあるひとたち。
なんだ、ロードスさん、季村さんが神戸やら神戸の詩人について語るのを、ただ聞きたかっただけなんだ、聞けなくて残念だったんだと、うどんをすすりながらおもった。

トークで、内堀さんは「史実だけを書くならだれにでも出来る。そこに実感を盛り込まないといけない。ただ、実感と持論は違う」というようなことをおっしゃった。季村さんの著書『山上の蜘蛛』は事実と実感のバランスが絶妙だとも。
鳥羽茂が作った、うすいうすい同人誌。それを高価で手にいれる。それがなんになるわけでもない。けれど、コピーではない実物を手にして、本の感触を確かめ、匂いをかいで、その本がみてきた風景を想像したりなんかもして、ボン書店あるいは鳥羽茂という人物を、遠い遠い忘れられたひと、ではなく、実感のなかにたぐりよせる。
同人誌や詩集を手に入れることは、「資料」としての使用以外にも大きな意味があることを知る。
『山上の蜘蛛』の、事実と実感の絶妙なバランス。「実感」について考える。
「垂水から三宮に通う」感覚が意味するところ。それは少部数の同人誌を収集するのとおんなじくらい重要な要素なのかもしれないなあ、とか。

daily sumusで林さんは「帝都と地方の関係は主従ではないのではないだろうか。」と書く。北園克衛や春山行夫は地方出身者ということを挙げ、「フランスやイギリスの文学最前線からすれば東京であろうと神戸だろうと距離の誤差はたいして問題にならない。」と結ぶ。けれど、出身地や距離の誤差ではなくて、「行っちゃったひと」と「とどまったひと」の差はすこしはあるのではないか、とおもった。
大阪や神戸はなまじ都会のせいで、「とどまり組」がたくさんいる。それは今もかわらず。

くだんの大衆食堂でうどんをすすっていたら、季村さんが姿をあらわす。
内堀さんにサインしてもらおうと、『ボン書店の幻』を張り切って持ってきたのはいいが、サインどころか声すらかけられなかった。そのリベンジではないが、季村さんに『山上の蜘蛛』を差し出す。これもロードスさんか街の草さんに言ってもらったのだ。
季村さんは気さくに承諾してくれたのだけど、おでんの汁がこぼれたテーブルの上に本を開くから、汚れやしないかと気が気ではなかった。「あなたの、美しい本が、汚れますよ」と心の中で叫んだ。あーーーー。

「なんの花か薫る日」

季村さんはブルーブラックの万年筆で、そう書いてくださった。
ああ、素敵ね、と思ったら、ごうださんが「小学生みたいな字やな」と言うので、気分を害された。

カンカンカンという踏切の音、海の近さ、日が沈んだあと空に残るひかり。足先から這い上がる寒さ、古い洋館。内堀さんのすてきな言葉の数数。季村さんのシャイなえがお。
この記憶に、大衆食堂の湯気、木の葉丼、やらがかぶさってきて、極めつけはロードスさんの「しろちゃん定食ってなんですか?」と店のひとにしつこく聞いてた声がトッピングされる。塩屋での1日。


忘れちゃってるので、まちがってることだらけかも。お許しください。

posted by chochobocko at 22:36| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月05日

はじまりの映画 a(fukushima)

ちょうちょぼっこでライブをしてくださった前野健太さんが主演した映画『ライブテープ』を元旦に見に行った。生まれ育った街が映画の舞台だった。何千、何万回と通り過ぎた道。そこに知り合いや家族が映りこんでいてもおかしくないことを思うと不思議だった。そんなことを気にしながら映像を見ていた。

74分間ワンカットの1回限りの瞬間を捉えている。映像に関してくわしくないけれど、74分間をずっと流し続けて撮るって撮られる側も撮る側もすっごい緊張することだと思う。編集だってないのだから、どうなるかわからない。誰かの意思で映像ができあがることをそもそも極力排除している。

そんなことが頭の隅をかすめると、とてつもないその状況に見入った。終わりの方で松江監督と前野さんがはなしをする場面がある。その会話を少し離れたところから撮るカメラの前を人々が行き来する。かっちり撮っていないのがいいのだ。

なにも計算して作られたものではない。だからといって誰もが作れるものじゃないし、当たり前だけれど、そこには経験とか勘とかあって、生まれている。それでもそこに映りこんだ人々や景色やさまざまなものからストーリーが生まれていることがおもしろいと思った。

実は、わたしは前野さんの音楽は聞いたことがなかった。でも、とてもいい音楽だなぁと思ったし、ちょうちょぼっこでのライブもききたかったなぁと思った。

ライブテープ公式サイト:http://spopro.net/livetape/



posted by chochobocko at 23:29| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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