2010年08月06日

したむきな人々

毎日、気が遠くなるほど暑くて、冬の寒いときも、なんにもやる気がしないけど、暑いなら暑いでなんにもやる気がしない。というか、年中、性根が怠け者なのか。

唐突だけど、『井上多喜三郎全集』の、息子さんの喜代司さんが書かれたあとがきがとても好きだ。短い文章ながら、詩人であるタキさんと、同時に父親であったタキさんのことがとてもよく書かれている。
タキさんは好きなこと(詩を書くこと)だけをして暮らしていたひとではなかった。
「一家を養う為、毎日の行商は欠かさず、注文を受けては二日に一度、京・大阪へ仕入れに出かけた。商売は薄利多売をモットーにし、多売とはいかなかったが、薄利を頑なに守り通した。」

JR京都駅までは定期をもっていて、その車中でハガキをしたためたり、詩を推敲したり、と書斎がわりであったという記述もとてもすきだ。

「好きな事だけやる」とか「やりたくないことはやらない」というスタンス。理解できないわけではない。また、こんな時代に、そのようなスタンスを頑なに守ることがたやすいことではないことも分かるし、憧れないわけでもない。だけど、それは1つの考え方にすぎないとおもう。人はそれぞれに、やり方があるのだ。

「もう少し生活にゆとりがあれば、もう少し長生きしていたら、まだまだ良い詩が生まれたのではないだろうか。こうして書いてくると、詩を一介の田舎商人の手なぐさみ位にしか思わない人もいるだろう。しかしそれは本意ではない。なぜなら詩とは本来生活からにじみ出るものであり、魂の迸りであるからだ。その詩は平易であるが、常に何かを訴え、問いかけている。それは時に社会に対する痛烈な批判であり、優しい鎮魂の歌でもある。貧しい生活の中で常に詩心を絶やさず、強く正しく生き抜いた魂の遍歴の記録でもあるだろう。」

すきなこともいやなことも、やりたくないことも、やりたいことも、すべて含めて生活だとしたら、そこから生まれてくる詩や、文章は必ずやあるとおもう。そのような暮しのなかから生まれてきたものを、これからも読んでいきたいと強く思う。

前置きが長くなったけど、先日、『近江の詩人 井上多喜三郎』の著者である外村彰さんにお会いした。
高祖保の評伝の文章を読んでいたので、冬の琵琶湖のような方だろうと想像していた。なんというか、センシティブで、しーんと静まり返った感じの。
けれど、お会いしてみると、気さくでサービス精神に溢れた、関西人で、そのぎゃっぷに笑ってしまった。ああ、けれど、きっと、ガハハと笑っていながら、とっても繊細な人なんだろうなあ。『井上多喜三郎全集」にも収められている田中冬二が書いた追悼歌の話題になったとき、この話をまさか外村さんとできるとは、と感慨深くなった。
3歳になるお孫さんが「おじいちゃん さみしんでせう」と、田中冬二に語りかける。わたしはこの詩がとても好きだ。

さて、そんな外村さんが編まれた『『したむきな人々 −近代小説の落伍者たち−』がもうすぐ龜鳴屋さんから出ます。たのしみですねー。
共編者の荒島先生にも外村さんとともにお会いしのですが、お寺の境内に住んでいるとか謎すぎて、驚く程もの静かで、そこにいるのに、わたしたちからずいぶんと遠くにいるような佇まいの方でした。
そんなお二人が編んだ本ですから、面白くないはずはないでしょう。

ちょうちょぼっこ3人でお会いしたのですが、楽しいひとときでした。
クラッシックが好きなお二人に「おすすめは?」なんて次田さんあたりが尋ねて、教えてくれたのですが、団地に帰る道すがらには既に忘れていました。
次田:「ね、おすすめのやつ、なんて言ってたっけ、あの、北欧の作曲家」
真治:「シベリウスじゃない?」
ごうだ:「えー。シベリウスって、星じゃない?」

ごうださん、星はシリウスです。


したむき.jpg


posted by chochobocko at 08:26| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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